トレイルランニングの
新たな勢力

美しいトレイル、マラソン人気、そして山を敬う文化。
日本でトレイルランニングが愛される理由を紐解く —

トレイルランニングの本場といえば、世界的には二ヶ所思いつく。一つは、豊富なトレイルと重厚感のある山々がそびえ立つアメリカ。もう一つは、難易度の高いルートや熱狂的なファンが多いことで知られているヨーロッパの高山地帯。しかし最近のレースリザルトを見ていると、この二大勢力が必ずしも上位を独占しているわけではない。そう、アジアという第三の勢力がその頭角を現し始めている。とりわけ日本や中国のランナーたちの勢いは凄まじい。

ウルトラトレイル・マウントフジ (UTMF) は、アジア最大のウルトラトレイルレースと言っても過言ではないだろう。ウルトラ・トレイル・ワールド・ツアーのシリーズレースとして、あのウルトラトレイル・デュ・モンブラン (UMTB) とその名前を連ね、国際的にも注目度の高い100マイルレースだ。富士山の麓を1周するコースは決して優しくはないが、トレイルや林道を丁寧につなぎ合わせて作られたコースは、ランナーたちに日本最大のランドマークを惜しげもなく見せてくれる。

トレイルランニングに関しては、ひょっとしたら日本ほどこのスポーツに適している国はないのかもしれない。国土の70%前後が森林で、高くはないが勾配のある山が数多くある。またマラソンや駅伝といったランニング大国としての歴史もある。ちなみに2015年以降のマラソン完走件数は日本が世界一だ。

日本のマラソンブームは今に始まった現象ではないが、トレイルランニングの普及に関しては比較的最近のことだと言えるだろう。都会の生活に追われている人たちにとっての、つかの間のエスケープとなっているのかもしれない。

これまでいくつものウルトラレースを国内外で走ってきた松永紘明さんは、国際的に活躍するランナーでありながらも、このUTMFには毎回欠かさず出場して完走している。

「年に1回は富士山のパワーをもらいに行かないとな、と思っています。山の神様と、土地の神様と、その場所からいただくエネルギーを充電しに行く感じです」

「日本人だから富士山が好きなんじゃないですかね。特に静岡生まれなんで、富士山はもともと小さいときからずっと見ていました。小学校の頃はプロのサッカー選手を目指していたので、その一環で近くの裏山を走るようになったんですけど、そこからいつも見えるのが富士山でした。なので、富士山は小さいときから身近であり、その美しさはDNAに刻まれています」

さらに松永さんによると、日本人のDNAには厳しいトレーニングに必要な精神力も刻み込まれているようだ。 「忍耐強くて真面目な国民性はあると思うんですよね。継続的に何かをやり続けるのは多くの日本人が持つ特徴で、その長所が長いエンデュランス系のスポーツを好きになる理由なのかなと思います」

「でも、もっと深いところにその真実はあるんじゃないかな。日本には昔から山岳信仰があるので。山という山に信仰があって、そこに悟りを求めて修行に行った、古来からある文化と伝統は大いに影響していると思います。日常に忙殺されている人が人生を見つめに、知らず知らずのうちに行き着いてはまっていくことが多いのかもしれませんね」

今年のUTMFは試練のオンパレードだった。それはまるで、山の神々がランナーたちの信仰を試しているかのようだった。UTMFを過去5回完走している黒田清美さんにとっても、今年のレースは一筋縄ではいかなかったようだ。

「天候の影響で、難易度は今までと比べ物にならないくらい高かったです。熊森山の下りはツルツル、ナイトトレイルはずっと真っ白。いつまでたっても止むことのない雨、下りは楽しくても全く登れない身体。もう、笑うしかありませんでした」

今年のレースは初日から継続的な雨に見舞われ、夜になるにつれて気温の冷え込みはさらに厳しくなっていった。翌日は雨脚が強まる中、レースの最高地点である杓子山付近では雪に変わっていた。黒田さんは天候の変化に配慮しながらも、前へ前へと進んだと言う。

「雪がひどくなって寒さも増して “今ここで着ないと” と思ってエマージェンシーシートを着ました。そしたらチームの仲間が後ろから2人やってきて、3人でパックになってずっとおしゃべりしながら、雪の中を楽しく、レースを忘れて進んでいました。仲間の存在は大きいです」

しかし天候の悪化に伴い、レース開始から約28時間後には、コースの短縮という形で大会の打ち切りが宣告された。黒田さんを含むほとんどのランナーたちが、レース中の終了を余儀なくされた。

一方、上位ランナーだった松永さんは、大会が打ち切られる前にゴールラインを踏んでいた。もちろん完走することの意義は大きいが、トレイルランニングにはそれを超越する何かがある。

「100マイルは走るたびに新たな発見があって、スポーツと言うよりかは自分の心の中を見つめる時間として、色々なことに気づいて、それがあるから人に優しくなれたりします。肉体的にと言うよりかは精神的に自分が成長して、一歩ずつ前に進むきっかけをくれる時間ですね」

「短いレースだとそこまで思わないんですけど、やっぱり100マイルだからこそです。修行なんですよね、結局。デッドラインがかなりシビアで、それに追われながら走るのは、完全に修行。そして終わるたびに一回死ぬんですよ。ゴールするたびに一度人生終わるんですよね。そしてゴールしたあと、次の大会に向けて次の人生がまた始まるんです。だから、もちろん死んではいないけど、何回も死ねると言うか、生まれ変われると言うか、リセットできるんです。100マイルは一つの人生のようなもので、走った数だけ精神的に早く成長できる気がします」

日本は自己の改善や向上、そして揺るぎない前進に執念を燃やす国である。ウルトラランニングこそが、そうした野望を満たすスポーツなのかもしれない。恵まれた自然環境や既存のランニング文化の影響は存分に受けているだろうが、日本でトレイルランニングが普及するのには、もっと根本的な背景があるのだろう。松永さんの話からは、そこには発達した現代の日本社会の中で生き抜くための、古から伝わる教えがあるようにも感じられた。

「山の中を走るということは、山岳信仰などでも昔からあったじゃないですか。それと全く一緒だと思うんです。悟りを開きたいからとか、自分の心をもっと見つめたいからとか、正直そういうものがあると思っています」